1930年代のアメリカ南部アラバマ州で黒人青年を弁護することになった弁護士。その裁判を弁護士の子どもたちの視点から描いた物語です。
古き良き名作というイメージだったので、こんなに心をかき乱されるとは思いませんでした。
正直、気持ちよく泣ける作品を期待していた自分を恥じるような、そんな作品でした。
画像出典:UnsplashのClayton Malquistが撮影した写真
昔の作品って、きっと単純な構成だろうとどっかで思ってたんですよね。50年代後半から廃れてきていたとはいえヘイズコードもまだあった時代だし。
しかも、グレゴリー・ペック(今作でアカデミー主演男優賞受賞)が演じる弁護士アティカス・フィンチは2003年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが選んだアメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100ではヒーロー部門第1位を獲得したらしいし、もっとスッキリとした結末を予想していました。
でも違ったんですね。
人種差別を描いた作品だと思っていましたが、それはこの作品のほんの一部だと思いました。
こっからネタバレ全開です!アマプラの見放題にあるので、よかったら鑑賞後に読んでみてください!
人種差別以外に描かれていること
この作品、人種差別だけでなく、虐待や障害、貧困、ジェンダーなど様々な問題が描かれていると感じました。そこがすごく現代的に感じたんですよね。
物語の語り手であるスカウトはお転婆な女の子。普段は男の子と同じようなオーバーオールを着ていて、学校に通うようになって初めてスカートを履く場面があるんですね。
そのあたりのシーンから見てとれるのは、父親であるアティカスは女の子らしくしなさいとか全然言わないお父さんだったんだなぁということ。
30年代ではすごく革新的な人だったんだろうな。
対して裁判で婦女暴行の被害を訴えた白人女性メイエラは過度に女性的というか少女性を感じさせる服装だった気がする。当時としては普通だった可能性もあるから、製作者の意図じゃないかもしれないけど。
アティカスはメイエラへの暴行は黒人青年ではなく、実の父親によるものではと裁判で示唆します。
それは恐らく性的暴行も含まれてるんだよね…。この時代に家庭内の性虐待の問題も少し仄めかす感じにせよ、描かれているとは思わなかったので驚きもありました。
虐待といえば、ブーと呼ばれる謎の青年。
彼も恐らく知的障害か精神障害かを抱えていて、家族によって家に閉じ込められているんだよね。
そういった虐待家庭を描くからこそ、よりいっそうアティカスの父親像が際立つ。
自分の子どもに「お父さん」じゃなくてアティカスと名前で呼ばれてそのままにしているのも印象的でしたね。子どもと対等であるという感じ。そういえば、崖の上のポニョも親を名前で呼んでいたな。パラサイトではお父さんに敬語で話してたな、とかいろいろな映画の設定とか文化を考えてしまいました。
他にも印象的だったのは、アティカスがメイエラの父親にツバを吐かれるシーン。
そのとき、自分のハンカチで拭ってその場に捨てるだけで、決してやり返したりしないんですね。
全然関係ないかもしれないけど、私はアカデミー賞のウィル・スミスの件を思い出したりしました。
「アラバマ物語」はアメリカでは学校の課題図書になるような作品らしいんですね。だから、アメリカ人の倫理観には、暴力でやり返さない高潔さみたいなものが根付いているのかな、なんて思ったり。
私個人的にはパートナーの病気に関することに人前で言及されて、パートナーが嫌そうにしてたら怒っても仕方ないと思っていて(というか自分が容姿をいじられたときに誰かが代わりにやり返してくれたらどれだけ助かったかと思ってしまった。そんなときに言葉で言い返しても「そんなつもりじゃなかった」とか「そんなふうに取るのは自分が容姿に囚われてるからでは?」みたいに反論されそうで)、この件に関してはどちらかというと日本の世論よりの感想だったんですが、アメリカと日本でこんなに世論が分かれた理由を垣間見た気がしました。
とにかく、アティカスは本当に素敵なお父さんなんですよね。思わず見習いたくなる。
でも、すごく現実的なキャラクターとして描いているところも秀逸だと思ったんです。
例えば、ロッキー4とかでロッキーが大演説したり、クイーンズギャンビットで勝利後にソ連の女性がサインを求めて殺到したり…
いや、そんな簡単にソ連の人の意識変わる!?みたいなシーンあるじゃないですか。(どちらの作品も大好きです!フィクションの中だけでも世の中を動かしたいのわかるし。それが実際に世論を牽引することだってあると思う。作品のテイストって全部違いますから)
でも「アラバマ物語」はそのタイプの作品じゃなくて、アティカスにも限界はある。
彼自身もヒーローというより法律家なんですよね。法のもとに全てを行っている。
だから当時の人種隔離法に対してそこまで声高に異を唱えるようなことはしてない。
ブーの家に子どもたちがちょっかい出しに行ったときも、「かわいそうな人なんだよ。そっとしておいてあげなさい」というだけで、その言い方はあくまで優しくて慈愛に満ちているし好奇心だけで関わりに行くよりはよいかなとも思うのですが、現代の感覚としては「いや明らかに虐待されとるだろ、支援機関とかに繋がなくて大丈夫?」とかもチラッと思うし、でも当時そんな機関ないんだろうな…現代ですら支援機関あってもうまく機能しない場合もあるし…とかなって暗い気持ちに。
後は裁判で黒人の弁護をすることをスカウトに非難されたとき、もし弁護を辞めたら誇りを持てなくなると語りますね。
それもけっこうね、アメリカ的というか西洋的だなと思いました。日本だったら、他の誰も黒人の人の弁護しないからかわいそうだろう?みたいになりそうって思ったんですよね。そこで自分の誇りが出てくるのって、すごくかっこいいとも思ったし、逆に相手のためではないんだ…とも思ったんですよ。とはいえ、そこに誇りを持てるのが他の人とは違うし、すごいんですけど。
そんなアティカスが最後に法を越えた判断をするのも、この作品のすごいところかもしれません。
メイエラの父が刺されたときアティカスは最初、法に沿った手続きをしようとするけれど、保安官に説得されて考えを変えるんですね。それがいちばんブーや息子を守ることになるから。
今までアティカスがやってきたことをある意味ひっくり返すというか。観客はどこに感情を持っていくべきかわからなくて、その場に立ち尽くしてしまうような気持ちになるんじゃないでしょうか。
ちなみに、このシーンでスカウトが実際はことの顛末を目撃しているのに「わからない」で通すのめっちゃ賢くないですか?自分だったら動転して無駄にしゃべってしまいそうwだから彼女が目撃しているということを理解するのに時間がかかってしまいました。目を見開いている描写があるのでそういうことですよね。
メイエラの父を殺したのはブーであるとしている解説が多いですが、ジェム(スカウトの兄)が正当防衛で殺した可能性もゼロじゃないですよね(原作はどうなっているのか知りませんが。アティカスはその可能性を考えています)
アティカスが体現するアメリカの良心とは?
アティカスはアメリカの良心を象徴するようなキャラクターだと言われることもあるようです。
でも、この作品を観たら何がアメリカの良心なのか一言では言えないと思います。
アティカスは全てを解決できるヒーローじゃないし、考え方も揺れている。
でも、自分のできる範囲のことはやってるよね(とはいえ、そのせいで子どもが危険な目にあったりもしているので本当にギリギリのところだったんだと思いますが)
せめて、アティカスのレベルにまでは行こうよ、みたいなところなのかもしれない。
できるかは、さておき、せめてここをみんなの理想にしようよ、的な場所にいる気がする。
原作の出版は1960年。映画の公開は1962年。1954年から1968年に渡る公民権運動(黒人の選挙権を求める運動)の真っ只中です。
こんなにも複雑な作品が当時大ヒットし、グレゴリー・ペックがアカデミー主演男優賞も受賞したこと、それが「アメリカの良心」が存在するという証明なのかもしれませんね。多くの人がこの作品を真摯に受け止めたのかな、と。
思いつくことをツラツラ書いてしまって本当にグダグダで申し訳ないですが、せめて思ったことを書き残したいと思った作品でした。
今後も折に触れて観ていきたい作品でした。
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