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先日、金曜ロードショーで放送されていた「もののけ姫」。私もこの機会に久しぶりに見直しました!
やっぱり名作だなーと思いつつ、Twitterで実況しながら観ていると、作品鑑賞後にこんな意見を発見。
序盤でカヤがアシタカに渡した“玉の小刀”。結局アシタカはそれをサンに渡してしまい彼女が身に付けることになる流れが、カヤ推しの自分としては何度見ても胸が痛くなる
宮崎駿監督曰く「男なんてそんなもん」とのことだけど、男の自分から見てもさすがにこれはクズだと思う..笑#もののけ姫 pic.twitter.com/QJtyqG80d5
— Mr.T🍺🎬酒と映画に溺れる日々 (@Taylor143always) August 13, 2021
ですよねーwww私もこの部分は、どうしても引っかかってました(笑)
時代背景などを根拠にアシタカを擁護する意見もよく見かけますが、やはり一夫多妻制などの背景があったとしても男女間の心変わりの悲しみは様々な古典で描かれているわけで、宮崎監督ほどの人がそれを無視するだろうか…と長年思っていたんですね。
でも今回Mr.TさんのTweetで宮崎監督自身が「男なんてそんなもん」と発言されていたというのを知りまして、お!と今までにない考えが浮かんだんですよ。
宮崎監督の発言のソースまではわかりませんでしたが、下記のサイトでも紹介されていたので引用します。
これをアシタカは、後々サンに贈ってしまいます。自分を慕っていた女の子から貰ったものを、別の女の子にプレゼントしてしまうなど言語道断。これについて一人二役でサンとカヤの声優を務めた石田ゆり子は宮崎駿に抗議したところ、監督からは「男ってこんなもん」と返ってきたのだとか。
出典:
この話を知って、もしかしたら、宮崎監督は、あえてアシタカをそんなふうに描いたのかな?と思うようになったんですね。
手前味噌ながら自分のTweetを引用させていただくと、
必ず出るアシタカクズ説w
確かにカヤの立場になると微妙ですよね…
当時の常識は違うとはいえね…作品全体を通して「立場が違えば正義は異なる」という話なので、完璧にみえるアシタカにも業を持たせたのでしょうか?
ちなみに、サンがタタリ神に取り込まれているときにキラッと光ってましたね! https://t.co/gFKMbum5ZM
— ろろりー (@lolo_cnm) August 13, 2021
時代背景や恋愛•結婚における価値観そのものが違うので、そもそも今の時代と当時を同じ土俵で比べること自体がナンセンスなのかもしれないですね、、笑
“完璧にみえるアシタカにも業を持たせた”という考察、とても柔軟で素敵なお考えですね😳👏
ご教授頂きありがとうございました!— Mr.T🍺🎬酒と映画に溺れる日々 (@Taylor143always) August 13, 2021
という感じです!返信までいただき、ありがたいです。自分もTwitter経由で新たな見方ができてうれしいです!
アシタカの行為は当時の常識であれば普通であり、アシタカは悪くないという説には、個人的にどうも納得できませんでしたが、宮崎監督自身がアシタカを完璧なヒーローではなく生身の人間として描きたかったのだとしたら…。
自分の中でいろんなことがつながった気がしました。
作中のアシタカの行動は森と人との間で中立を保ち、被害を最小限に食い止めたと見れば完璧に思えます。
周りの人(特に女性陣)は、そのことに理解を示しているため、違和感も感じません。
でも、アシタカは呪いの影響で常人にはないパワーを持った存在でしたよね。もし、森側についていれば、モロやシシ神は生き残り森も太古のまま守られていたかもしれない、人側についていればエボシの腕も守られていたかもしれない…。
双方痛み分けという結果に周りも納得しているのですが、逆恨みする者が出てもおかしくないような状況にも思えます。
立場が変われば正義なんて簡単に置き換わってしまう。完璧に見えるアシタカも、そこから逃れられない、人間としての業を持った存在なのだ、ということを小刀の件から暗示しているのかもしれません。
個人的には「もののけ姫」以降から宮崎作品のテイストが変わってきたように感じていて、ジブリ初期作(厳密にはジブリではないけどカリオストロの城、ナウシカもカウント)に比べて、主人公に感情移入させない傾向になってきているような気がするのです。
勧善懲悪の作品を善に感情移入して観るのは気持ちがいいもの(かくいう私も初期作大好きなんですけど…)、もちろん初期作も善が悪と対になる存在として描かれていたりと深みは大いにあるのですが、最近の作品になればなるほど、善悪で割り切れない混沌としたリアルな世界観に複雑な後味を抱くことも多いです。
そのリアルな世界観に踏み出す大きな一歩として、小刀の描写があったのかもしれません。なので、「アシタカはクズで正解!でも宮崎駿は承知の上でアシタカをクズとして描いた!」が私のアンサーとなります!(いや、言い方…)
もう1つの説
「完璧にみえるアシタカにも業を持たせた説」とは別にもうひとつ考えついた説があります。
それが、「アシタカはカヤとサンを重ねていた説」
こっちのほうが、もうちょっとロマンチックかな?(笑)
アシタカの中では、サンはカヤを思い起こさせる存在だったため、別人に小刀を渡したのではなく、潜在意識的にはカヤと再会したような気持ちを抱いていたのでは?という説です。
カヤとサンは、同じく石田ゆり子さんが演じていますよね。宮崎監督が同じキャストを使うときには、それなりに意味があるのでは?と思うんですね。
例えば、魔女の宅急便で高山みなみさんが演じているキキとウルスラの場合、
「キキの成長した姿をウルスラが体現している」というのは有名な話です。
やはり同じ役者さんが演じる以上、何らかの同一性を示したいのではないでしょうか。
それを考えると、アシタカはサンにカヤの面影を感じていたというのもありえる話かもしれません。
サンとカヤの類似点をもうひとつ挙げると、文化の類似性があるのではないでしょうか。
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これはカヤとの類似性だけではなく、アシタカ自身との類似性にもなります。
アシタカは蝦夷と呼ばれる一族の出身。大和朝廷に制圧され、小さな共同体を築き隠れ住んでいる人々です。
蝦夷は、作品の舞台となる室町時代のメインストリームとは異なり、縄文的な価値観を持って生きている人々ではないでしょうか。
その価値観はサンの価値観と共通している部分もあると思うんですね。
サンの土面も縄文的なモチーフですし。
また、蝦夷の人々は東北に住んでおり、北海道のアイヌの人々とはまた異なるようなのですが、やはり衣装などインスピレーションを受けた部分もあるのかな?と感じています。サンがモロの血を吸い出す場面ではサンの口の周りが赤く染まっています。これはアイヌの女性が口の周りに入れる入れ墨(シヌイェ)を彷彿とさせるようにも思います。(シヌイェの色は深みのある藍色のようですが)
諸説あるそうですが、アイヌの人々は縄文人のDNAを強く受け継いでいるという説もあるそうです。
旅の途中や、たたら場で故郷とは異なる価値観の人々に出会ってきたアシタカだからこそ、サンにシンパシーを感じたのかもしれません。
呪いを受けた身で故郷に帰ることはできない(作品の終わりでも痣が薄く残っていたことから、完全に呪いが解けたわけではないらしい)。だからこそ、故郷の面影を感じる存在を求め、その人に自分の思い出の品を持っていて欲しかったのかもしれませんね。
後、呪いだけではなく、そもそも隠れ住んでいる村で砂金も出るみたいなので、アシタカが帰ってしまうと跡をつけられたりして、村が荒らされる可能性もあるかもしれませんしね。
呪いが解けたんだから村に帰ってやれという意見もわかるのですが、なかなか難しいのかなぁと思います。
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巷で話題のアシタカ=クズ説から、いろいろ考えてしまいました。
他にもジブリ考察やジブリとの類似性を感じた作品を考察しています。よろしければ読んでみてください!
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