画像出典:風立ちぬ – スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI
実は、この映画は自分の中では好きと言い切れない作品です。
でも、めっちゃいい映画。
作品として本当に立派。
だから、好きと言えたら、どれだけいいかと思います。
でもでも、ウソつく方が、この映画には、もっと失礼と思う。
さて、こっからガチ感想!!
完全に私の主観と実体験が気になる人のみ、どうぞ!!
観た後の感想は、二郎に対して、何かを作れるって、うらやましくって、悔しくって、しょうがないと思いました。
実は、二郎達がドイツに研修に行くシーンで、
自分の体験を思い出したんですよね。
私は大学で語学を専攻していて、
入社後すぐに、海外からエンジニアが来る用事があり、
通訳として同行させてもらったことがあるんですね。
ホントにたまたまなんですけどw
一応、その言語がしゃべれるってことで呼んでもらって、
はりきって付いて行ったんですけど、
全然、ダメでしたね。
機械のしくみがわからないから、
全然訳せない….
centrifugalとか、単語も頑張って覚えたのに…(遠心式のという意味です)
(wikiで調べたし、イケる!!と思ったんだ・・・・(´・ω・`))
私の言葉より、エンジニアの上司がジェスチャーで、
腕ぐるんぐるんやってる方がずっと伝わってるじゃん。
画像出典:風立ちぬ – スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI
「なぁ、兄弟」
そう、言葉がなくても、同じモノを作る人同士って、通じ合ってる。
その間に私は入っていけなかった。
その時の感じを思い出した。
語学はただの道具。
言葉の先に伝えたいことがないと、
意味がないのかな…
(今は本当にそんな考えも変わって、語学を学ぶだけでもめちゃくちゃ意味がある!と思ってます。その詳細はまた別の記事で!)
「風立ちぬ」は全編、あえて言葉を廃した作品だと思います。
特に感情を表すセリフを。
それも勝手に悲しかった。
私はセリフ書きとしての宮崎駿も好きで、好きなセリフもいっぱいあるけど、
宮さんはホントは絵描きなんだなぁ。
創作者って、晩年になるほど、その人の本分に戻って行くんですよ、きっと。
そっかぁ、彼は絵描きなのか…
彼は言葉なんていらない人なんだな。
創作への情熱も狂気も、真実の愛も全部言葉なしで伝えられる人なんだ。
むしろ、言葉にしたら、いろんなことが野暮になってしまう。
言葉って、無力だなぁ。
なんだか言語を学んできた自分が、
すごく、くだらなく思える…
菜穂子が二郎を愛した理由
画像出典:風立ちぬ – スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI
菜穂子についても書かないといけません。
彼女が、どうしてそこまで二郎に惹かれたか。
菜穂子は絵を描いていましたよね。
でも、作中で彼女の絵に言及することはなかった。
本当に私的な解釈ですが、
彼女は生み出したいけれども、
生み出せない人だったのではないかと思います。
綺麗な絵を描くのだろうけど、
(一度、木の絵がハッキリ映っています)
お嬢さんの道楽のレベルでしかない。
だからこそ、あそこまで
二郎に焦がれるのではないかと。
二郎に自分のできなかったことを託しているからこそ、
死にかけてる横でタバコ吸われても、そんなの全然平気。
ですが作中、そんな菜穂子の心情を映し出す描写は一切ありません。
あってはいけないと思います。
きっと、菜穂子がもっと自分のエゴを持った、業の深い女性であれば、
この作品に感情移入できる人はもっと増えたと思います。
もちろん、私も含めて。
でも、そんなことをしては、
きっと画面が濁ってしまうし、
作品としての格が下がってしまう。
菜穂子は誇り高い女性として、
その行動は純粋な愛ゆえのものとして描かれなくてはならないんです。
私、本数だけは見ているから、それは理解できます。
「宮崎駿、やりたいこと、やりきったって感じ」
これがこの映画に感じたいちばんの感想かもしれません。
これは、巨匠という地位に上り詰めた人にしか、
作れない作品です。
宮崎駿が何を作りたいのか、宮崎駿がどんな人なのか、
みんなに興味を持ってもらえる人になって、初めて作れる作品なんです。
もう、世間のニーズと擦り合せをする必要なんてない。
そんな作品を作って、自分で見て、号泣して、引退する。
なんて、素敵なんでしょう。
まだ、もっと見たい気持ちもあるけど、
創作者として、ここまで作りたいものを作ってしまったんだから、
ここまでさらけ出させてしまったんだから、
これで最後にしてあげたい、
そんな気持ちにもなった作品でした。
ジブリでは現在、宮崎駿監督の次回作として『君たちはどう生きるか』の製作が進んでいるそうですね。『風立ちぬ』は最後にふさわしい作品だと思いましたが、新作が出来上がったとなったら、やっぱり観たいですねぇ。
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